人間社会の発展、そしてそれに伴う自然環境の悪化とともに姿を消す生物種は近代以降もはや枚挙に暇がない。多くの場合は乱獲や生息地の破壊により図らずも血筋が途絶えるというものであるが、真骨頂として "人為的に存在を抹消された" 生き物というのが少ないながらも存在する。今回はそんな "文明の功罪" の象徴ともいえる小さな命たちの今を追った。
ミヤイリガイ(カタヤマガイ) Onchomelania hupensis nosophora。生物に関心のある人々であれば、頭の片隅にあるという方も多いことだろう。
川の貝としてお馴染みの顔・カワニナに似た、殻高1cmに満たない小さく地味な巻貝である。しかし、その裏には日本住血吸虫の中間宿主として忌避された挙句、吸虫症の撲滅を目的とした大規模な駆除活動により絶滅寸前まで至らされるという悲劇的な来歴を抱えている。そもそも新種としてこの貝の存在が示唆された経緯というのが日本住血吸虫症の原因究明の過程にあったことからも、当時の人間にとってこの貝と吸虫とがいかに切っても切れない関係として認知されていたか想像に難くない。
さて、事の発端となった日本住血吸虫症の流行地は各地に不連続的に点在したが、中でも最大級の被害を被ったのが山梨県甲府盆地であり、当地では "地方病" と称され長きにわたり恐れられた(この辺りの経緯はwikipediaの該当ページが詳しい。寄生虫症関連の記事はwikipedia文学と称されることもままあるほどの名文揃いであるので、是非ひととおり目を通すことをおすすめする)。ここからこの大きすぎる爆弾を抱えた小さな貝と人間との "戦い" が幕を開けたのだ。
そして1996年にミヤイリガイと日本住血吸虫症にまつわる一連の騒動については終息宣言が出され、その後新たに吸虫に感染した貝が見つかった例もない。多大な犠牲を出しながらも決して無駄死になどではなく、ミヤイリガイの撲滅は医療の発展、そして住民の安寧への寄与という大きな足跡を残したのであった。
甲府盆地における吸虫症の流行地は、富士川水系の釜無川流域に集中していた(その分布の仕方から水を介した感染拡大が真っ先に疑われたという経緯もある)。鉄道空白地帯であるため、公共交通機関を使う場合は甲府駅や韮崎駅といった県中西部の拠点駅からバスでアクセスすることとなる。この日は韮崎駅から。
絶滅を免れたとはいえ、風前の灯火の希少種であることに変わりはないので生息地に関するこれ以上の言及は控えさせていただくことをご了承願いたい。
この小さな貝が水田地帯を好むことは諸々の文献から容易に窺い知ることができるが、百聞は一見に如かず、詳細な生息環境については現地に赴いて目に焼き付けるのがやはり結局はいつの時代も手っ取り早いものである。
まず注目したのが田んぼの脇を流れる細い用水路。閉鎖性の高い水域としての水田から流出して分布を拡大するには最も手っ取り早い経路と考えたのだ。しかしその壁面には同じ水生の巻貝でもモノアラガイやサカマキガイがへばりついているのが散見されるのみで、ミヤイリガイの姿はない。よくよく考えてみれば、ミヤイリガイ撲滅運動の一環に「水路の三面護岸」というものがあることからも、このような環境が彼らの安住の地として不適であることは明らかであった。
青い稲が風に遊ぶ水田の淀みにも目を向けたが、やはりそれらしき影は見当たらない。
思いのほか苦戦していた矢先、水田から流れ出す泥底の舗装されていない細流を発見。流れ出す先は支流を介して釜無川本流に繋がっている。
ここでようやくミヤイリガイを発見!砂交じりの泥底でヒメタニシと混生していた。「水田と繋がる非舗装の小川」「水が滞留しない流水域」「泥が積もっている」などが理想的な生息条件として挙げられると思われる。コンクリート壁と接する箇所ではそこにへばりつく個体もちらほら見られたので、コンクリそのものが嫌いなわけではなく泥の底質さえ脅かされなければいいのだろう。ちなみに最近めっきり見なくなったコオイムシも生息していた。いい小川である。
ポイントこそ局所的ではあるものの、個体数は非常に多くサンプルの確保には困らなかった。採集圧に晒されるようなこともないのだろうが、地域ぐるみでこの貝の抱える歴史や現状を広報するようなムーブメントが見られなかったのは少し気になった。
ちなみに思いっきり素手で触っている。日本住血吸虫は経皮感染だが、ここでミヤイリガイのみを腫れ物扱いし触ることを恐れるのは日本における病気の撲滅に尽力した人々、そして何より犠牲になった貝たちに対してこの上ない失礼にあたるという考えから他の貝と同じように扱うことを心に誓った。最終的に十数個体を持ち帰り飼育することにした。無念を抱えて死んでいった仲間のぶんも増えるといいな。
形態は本当にカワニナに似た雰囲気である。しかし殻の螺層が6~8ほどになっている(カワニナは4以下が一般的)ほか殻口が明らかに丸っこいなど明確な相違点も多い。右のように老成した貝は殻皮が削られ光沢を失っている。
現地から撤退する道すがら、拡大経路となった釜無川を渡った。最下流、笛吹川と合流する鰍沢(かじかざわ)付近で富士川と名を改める。
農業の発展とともに生き医療の発展とともに散っていった命の重みに鎮魂の祈りを捧げつつ、甲斐の沃野を後にした。